夜、光る→妄言(おはよう)

「どうして、人を殺してはいけないの?」

「殺されてみれば分かる」

 

 前夜。世界大戦の前夜。二〇二四年、東京。五階建ての屋上から、東アジア有数の巨大都市の夜景を眺めている。灯りが綺麗、綺麗、綺麗。とりわけ明るいのが南西のほう。銀座、六本木、赤坂、恵比寿、そんで首都高湾岸。もっと奥には川崎や横浜。火の粉のように眩しい。ひとつひとつの灯りに思いを馳せる。何が燃えているんだろう。電気?半分、正解。燃料?そのまた四分の三、正解。中東諸国、オーストラリア、アメリカ、ロシア、中南米諸国、ナイジェリア、エトセトラ。燃えている、燃やしている。世界島の片隅で煌煌と。ここは日本。かつて東の果てであることを誇りとし、また東の極であることを逆手に取って近代化を成し遂げた島国。そんな国に生を受けた自分は、こうして特等席から遠巻きに燃える灯を見物している。なんだか申し訳ない気がした。

 

 戦争、戦争の精神的淵源について考える。最も不可解なのは、本来死を恐れる筈の人間の個々体が、自ら死の矢面に立ち、他の個体を殺すという事。失われなくていい筈の命が、失われる事。だから、なぜ人が戦争で死んでしまうのか、例を挙げて考えてみる。例えば、冷戦は共産主義と資本主義、二つの侵襲的なイデオロギー間の構想であり、より暗然かつ官能的であった後者が生き残った。第二次世界大戦は地理的・歴史的生存圏とその主張を擁護するイデオロギー間の戦いであり、より物量に富み(数多くの偽善を含みながらも)包摂的な方が勝った。第一次世界大戦は、現状変更国家たる独帝国と現状維持国家たる英仏両帝国の相互牽制が破壊的にエスカレートし、国家としての経済的体裁をより保てた方が勝った(寧ろその段階に至るまで止まらなかった)。どの戦争にも、何か駆り立てるものがある。それは全て、自分達を生かしてきた"何ものか"(資源や土地を含む環境、政治体制、同盟など広義の安全保障)が損なわれることへの不安。この点で全ての戦争は宗教的なものと云っていい。その生命の源たる"何ものか"は本丸であり弱点、神聖なものであるので滅多に明言はされない。したがって戦争の予防においては、この不安が不安のまま伝染する前に言葉なり暴力なりの必要最小限の道具で以て慎重に解体することが肝心となる。

 

 生命の本質の防衛。こと人間本性の改変が容易になった今世紀においては、闘いの構図は人間本性改変への神経質さv.s.無頓着さの構図をとる。例えば現代最大の危機の一つは先進諸国における少子高齢化ならびに人口の減少であるが、この生命の本質的側面である<継承(再生産)>について、宗教・民族等の伝統的・共同体主義的な価値観と、資本主義社会の副産物たる反出生主義・虚無主義との衝突の例は枚挙に暇がない。質が悪いことに、共同体主義者(尤もアリストテレスを引くまでもなく全ての人間は共同体主義者であるが)の多くはこの防衛の本質を理解しておらず、反フェミニズム、反LGBT運動や中絶の非合法化、更には極度の異性排撃といった硬直に陥りがちであり、そういった硬直がまた別の人間本性を倦ませることに気付いていない。また虚無主義者はその無頓着故に鼓腹撃壌、生命の尊厳をむやみに冒瀆し、不感症に陥るまで個の欲を追求し、自らの生命を存立させている<何ものか>にはルサンチマンから攻撃的な態度を取る。神経質さv.s.無頓着さ。我々はこのような不毛な戦争のいかなる勢力にも与せず、中庸、すなわち両端から罵られる道を行かねばならない。それは山背のようにどちらに転ぶともしれない険しい道になるだろう。

 

 朝。眠れず頭痛の命じるままに日記を書いていたらもうこんな時間。

やっぱり日本の朝は早い。欠伸。

 

「思い入れ!思い入れ!!」

 近眼者の欲求。文章を書くとき、自分はいつも綜合的印象から出発する。何故なら、"書きたい"という欲求はいつも眼と視神経、そして眼球の周りの血管の不満足に拠るから。かつて一度見たことのある何かをもう一度、もっと近くで、もっと明瞭に視たい。輪郭を、色合いを、手触りを、温度を。そんな猥褻な欲求のもとに、無理くり思い出した印象を言葉で再構築する。そうして初めて、過ぎ去った時間が歪みを掛け、毛羽立ってしまった思い出の輪郭に再び触れることが出来るのだ。

 

 思い出す、思い出す。少し前に会った、女の人のこと。交際中の相手がいるにも拘らず、話を聞いてくれたり、会ってくれたり、屋根を貸してくれたりした人のこと。多忙そうだから話し掛けるのが躊躇われるあの人のこと。普段はあまり表情に変化が無いけど、ふとした瞬間にがたがたの歯を覗かせて笑うあの人。あの人、指示語だけで思い出せてしまうあの人、どうして己の我が儘に付き合ってくれるのか少しも分らない。彼女は何を見出しているのか、己に何を求めているのか。分らない。ただ有難い事に、今時よくいるような、出会った相手を一冊の本を読むように消費するような感じでもなさそうだ。そのお蔭で、今のところ己は聖書にならずに済んでいる。出来るものならなりたいけれど。

 

 つい先日も待ち合せがあった。夕方の雨の某駅前、ちょっとした広場。目的もなく、少しふらついてお喋りする。向こうは知的な人で、こっちは痴的な人非人。お互いどんな話題でも話を広げられるので、会話が弾んで楽しい。ただ、彼女は滅多に表情に出して笑わないので、こちらはいつも不安になって、話題の切れ目ごとに頻繁に口籠る。そもそもどうして向こうが一緒に居てくれるのかの理由が分かっていない。何も分かっちゃいないから、いつも暗い顔で黙り込む。そんな時、あまりにも向こうが無言で無表情なものだから、存在を確かめたくなってふと彼女の顔を凝視してしまう。触れたい。亢進する猥褻。そしてその試みは、大抵どちらかが沈黙に耐え切れず噴き出すことで頓挫する。いつもそんなことを繰り返してばかりだ。

 

 本当は全部分かっている。印象は常に全部を含んでいる。まるで完璧な歴史画のように、感傷を伴う思い出には、そこに至るまでの因果、決定的瞬間、そして待ち受ける運命、それら全ての時間の描写がある。そんな一枚絵を、己は確かに持っている。ただその絵は印象画、距離によって見え方がまるっきり変わってしまうのだ。つい先日はあの人に近付くことが出来た。そしてここ最近は遠ざかっている。(この先は……)

 分からない。何か言えるとすれば、近視は年を重ねないと治らないということ。願わくば、彼女にはその時まで震えがちな己の眼差しを読み取っていてほしい。。今はただ良き運命を天使が、我々二人の間を通り抜けがちな天使が、運んでくれるのを待つばかりである。