「思い入れ!思い入れ!!」

 近眼者の欲求。文章を書くとき、自分はいつも綜合的印象から出発する。何故なら、"書きたい"という欲求はいつも眼と視神経、そして眼球の周りの血管の不満足に拠るから。かつて一度見たことのある何かをもう一度、もっと近くで、もっと明瞭に視たい。輪郭を、色合いを、手触りを、温度を。そんな猥褻な欲求のもとに、無理くり思い出した印象を言葉で再構築する。そうして初めて、過ぎ去った時間が歪みを掛け、毛羽立ってしまった思い出の輪郭に再び触れることが出来るのだ。

 

 思い出す、思い出す。少し前に会った、女の人のこと。交際中の相手がいるにも拘らず、話を聞いてくれたり、会ってくれたり、屋根を貸してくれたりした人のこと。多忙そうだから話し掛けるのが躊躇われるあの人のこと。普段はあまり表情に変化が無いけど、ふとした瞬間にがたがたの歯を覗かせて笑うあの人。あの人、指示語だけで思い出せてしまうあの人、どうして己の我が儘に付き合ってくれるのか少しも分らない。彼女は何を見出しているのか、己に何を求めているのか。分らない。ただ有難い事に、今時よくいるような、出会った相手を一冊の本を読むように消費するような感じでもなさそうだ。そのお蔭で、今のところ己は聖書にならずに済んでいる。出来るものならなりたいけれど。

 

 つい先日も待ち合せがあった。夕方の雨の某駅前、ちょっとした広場。目的もなく、少しふらついてお喋りする。向こうは知的な人で、こっちは痴的な人非人。お互いどんな話題でも話を広げられるので、会話が弾んで楽しい。ただ、彼女は滅多に表情に出して笑わないので、こちらはいつも不安になって、話題の切れ目ごとに頻繁に口籠る。そもそもどうして向こうが一緒に居てくれるのかの理由が分かっていない。何も分かっちゃいないから、いつも暗い顔で黙り込む。そんな時、あまりにも向こうが無言で無表情なものだから、存在を確かめたくなってふと彼女の顔を凝視してしまう。触れたい。亢進する猥褻。そしてその試みは、大抵どちらかが沈黙に耐え切れず噴き出すことで頓挫する。いつもそんなことを繰り返してばかりだ。

 

 本当は全部分かっている。印象は常に全部を含んでいる。まるで完璧な歴史画のように、感傷を伴う思い出には、そこに至るまでの因果、決定的瞬間、そして待ち受ける運命、それら全ての時間の描写がある。そんな一枚絵を、己は確かに持っている。ただその絵は印象画、距離によって見え方がまるっきり変わってしまうのだ。つい先日はあの人に近付くことが出来た。そしてここ最近は遠ざかっている。(この先は……)

 分からない。何か言えるとすれば、近視は年を重ねないと治らないということ。願わくば、彼女にはその時まで震えがちな己の眼差しを読み取っていてほしい。。今はただ良き運命を天使が、我々二人の間を通り抜けがちな天使が、運んでくれるのを待つばかりである。